2005-11-27
ショパン猪狩さん 、死去~日本のプロレスの歴史は彼から始まった ※追記アリ
※この記事には誤りがあります。最後に「追記」がありますので、そこまで必ずお読みください。
「レッドスネーク・カモン」。
誰でも知ってるコメディアン、「東京コミックショウ」のショパン猪狩さんが亡くなった。
76歳。
ショパン猪狩氏(本名・猪狩誠二郎=コメディアン) [ Sankei Web おくやみ ]
なぜか八木淳子さん(元LLPW)の紹介記事から。
八木淳子(松山市出身)第3回 憧れの女子プロレスのリング [ SPORTS COMMUNICATIONS ]
ショパンさんの妹・猪狩定子さんは日本人初の女子プロレスラー(=日本人初のプロレスラー?)として知られています。全女で殿堂入りの表彰を受けた際に「第1号」として正式に認定されたはず。
歴史の流れをみると、「ショパンさんがいなければ日本にプロレスは根付かなかった!」・・・とは言えないような気もしますが、創世記の登場人物として記憶には残しておきたい。
全女が消滅した年に亡くなるというのも何か因縁を感じます。
合掌。
※追記:パン猪狩さんのお孫さんから以下のようなコメント頂きました。
あの~水をさすようでわるいとおもいますけど、女子プロレスを始めたのは、ショパン猪狩さんだけではなくきっかけは、ショパン猪狩さんの兄、パン猪狩さんですよ、
日本のほとんどでは、ショパンさんがたてた!だとかって
言っていますけど、兄パン猪狩さんですから(汗)
なんでこんなこという?ってそれは僕はパン猪狩の孫なんで、んでショパン猪狩さんは、その当時レフリーをしていて、おじいさんのパン猪狩さんが先になくなってしまって、それをきっかけに、ショパン猪狩さんが私がつくりました!だなんて調子にのってしまったのが、元凶です。
ですがやはり兄弟であった僕のおじいさんのパン猪狩さんは、何もいわなかったそうです。
※日本初のプロレス興行に大きく関わっていたのは、「ショパン猪狩」さんではなく、その兄「パン猪狩」さんであることが“事実”のようです。
ご指摘くさだった皆さん、ありがとうございました。訂正します。
「レッドスネーク・カモン」。
誰でも知ってるコメディアン、「東京コミックショウ」のショパン猪狩さんが亡くなった。
76歳。
ショパン猪狩氏(本名・猪狩誠二郎=コメディアン) [ Sankei Web おくやみ ]
ショパン猪狩氏(ショパン・いがり、本名・猪狩誠二郎=いがり・せいじろう、コメディアン)13日、心不全のため死去、76歳。葬儀は近親者で済ませた。喪主は妻、千重子(ちえこ)さん。女子プロレスに関わっていたという話は聞いていたのですが、調べてみると・・・女子プロレスどころか、日本で初めてプロレス興行を開催したのが彼だったのであります。
「レッドスネーク・カモン」で始まる蛇のコントで人気を博し、昭和30年には日本初の女子プロレス団体を創立した。
なぜか八木淳子さん(元LLPW)の紹介記事から。
八木淳子(松山市出身)第3回 憧れの女子プロレスのリング [ SPORTS COMMUNICATIONS ]
日本のプロレスの生みの親、力道山が大相撲からプロレスに転向したのは1951年の10月。アメリカ修業を経てシャープ兄弟を日本に招き、本格的にプロレス興行をスタートさせたのが1954年の2月。ショパンさんがプロモートしていた「女子プロレス」とは、どちらかと言えばストリップの延長。ガーターマッチやらが流行っていたようです。「警視庁から禁止令が下され」との記述もありましたから、かなり内容はアレだったんでしょう。
これが一般的に知られている日本におけるプロレス誕生の歴史だが、意外なことに女子プロレスの方がその歴史は古い。
街頭テレビの前で人々が力道山の空手チョップに沸き返るその前に、女子プロレスは産声をあげていたのだ。
その生みの親は、「レッドスネーク、カモン!」のスネークショウで有名な、東京コミックショウのショパン猪狩である。
戦後まもなくショパン猪狩は兄のパン猪狩とのコンビで、ボードビリアンとして人気があった。そして彼らの目にとまったのがアメリカで人気があった女子プロレスだ。これを日本でショーとして舞台に上げれば客に受けること間違いなし――そう思い、妹の猪狩定子、田山勝美らにレスリングの特訓を行った。
1948年2月、東京都三鷹市の国際基督教大学の裏、間口3間、奥行4間の小さな道場で女子プロレスが芽生えたのは、力道山がプロレスを志す3年前の出来事だった。
始めは地方巡業をしていたが、2年後の1950年、初めて東京の晴れ舞台・日劇小劇場のショーの中で女子プロレスの試合を行なった。これはかなり人気を呼んだが、警視庁から禁止令が下され、あえなく姿を消してしまう。
猪狩兄弟の斬新なアイデアに時代がまだ追いついてこれなかったのだ。
わずか2年で途絶えた女子プロレスだが、本場・アメリカから救世主が現れた。1954年11月、在日米軍慰問のため、WWWA世界チャンピオンのミルドレッド・バーグ、メイ・ヤングら6人の女子プロレスラーがアメリカからやって来た。
一行は蔵前国技館、大阪府立体育会館、神戸王子公園体育館、京都アイスパレスでも興行を行い、いずれの会場も超満員で大好評だった。
本場・アメリカから女子プロレスラーがやって来るという話を聞いた猪狩兄弟は再び選手たちを集め、蔵前国技館での試合に猪狩定子らを前座として出場させた。この時期、次々と女子プロレス団体が設立される。そして1955年、統括団体である「日本女子プロレスリング連盟」が生まれた。
しかしその後は女子プロレス人気は次第に下火となり、氷河期が10年以上続く。そこで人気復興のため「日本女子プロレスリング協会」が発足したが、すぐに内部分裂が起こった。翌年、松永高司は「全日本女子プロレス」を旗揚げした。 マッハ文朱、ジャッキー佐藤とマキ上田の“ビューティーペア”、ライオネス飛鳥と長与千種の“クラッシュギャルズ”など、アイドル並みの人気スターの出現とともに、女子プロレスは日本で不動の人気を確立した。
ショパンさんの妹・猪狩定子さんは日本人初の女子プロレスラー(=日本人初のプロレスラー?)として知られています。全女で殿堂入りの表彰を受けた際に「第1号」として正式に認定されたはず。
歴史の流れをみると、「ショパンさんがいなければ日本にプロレスは根付かなかった!」・・・とは言えないような気もしますが、創世記の登場人物として記憶には残しておきたい。
全女が消滅した年に亡くなるというのも何か因縁を感じます。
合掌。
※追記:パン猪狩さんのお孫さんから以下のようなコメント頂きました。
あの~水をさすようでわるいとおもいますけど、女子プロレスを始めたのは、ショパン猪狩さんだけではなくきっかけは、ショパン猪狩さんの兄、パン猪狩さんですよ、
日本のほとんどでは、ショパンさんがたてた!だとかって
言っていますけど、兄パン猪狩さんですから(汗)
なんでこんなこという?ってそれは僕はパン猪狩の孫なんで、んでショパン猪狩さんは、その当時レフリーをしていて、おじいさんのパン猪狩さんが先になくなってしまって、それをきっかけに、ショパン猪狩さんが私がつくりました!だなんて調子にのってしまったのが、元凶です。
ですがやはり兄弟であった僕のおじいさんのパン猪狩さんは、何もいわなかったそうです。
※日本初のプロレス興行に大きく関わっていたのは、「ショパン猪狩」さんではなく、その兄「パン猪狩」さんであることが“事実”のようです。
ご指摘くさだった皆さん、ありがとうございました。訂正します。
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カテゴリ: 女子プロレス | 2005-11-27 | 投稿者:杉