「教養としてのプロレス」を読みました
(02/12 いろいろ)



 プチ鹿島さん著「教養としてのプロレス」は、2014年8月に初版、2016年7月に文庫版、その後電子書籍版も発売されています。
 プチ鹿島さんには大変影響を受けていますので、発売時より大変気になっていたのですが、諸事情あって電子書籍化されたことで読めることに。それにしたって感想遅い、申し訳ない。

▼気づきと共感からくる喜びが次々に…▼

 「教養としてのプロレス」は、「プロレスを通して物の見方を知る」本。プロレス本ではないと書かれていますが、逆に読んでいけば「プロレスが何なのか」のヒントが山のように見えてくる本でもある。私にとっては「プロレス」そのものを語る、ド真ん中のプロレス本でもありました。

 読み進む度、気づきと共感からくる喜びが溢れてくる。メジャーとは呼べないジャンルだからこそ、共感できた喜びはハンパありません。
 [第8章 無駄なものを愛す」は何度も読みました。
 1991年、立花孝志氏が「世の大多数の人にとってどうでもいいことである」とプロレスを指して語ったことに対し、大ショックを受けつつも「その通り」と認めたうえで、無駄なものがあってもいいじゃないか、無駄なものを見ていたからこそ得られるものもある。グレーゾーンがなくなりつつある社会を見るに、無駄なものがない世界が本当に正解とは思えなくなってくる。
 この章では「プロレス」を表現する意味でこんな例えも出てくる。

 コップ1杯の水を持って運ぶとしたら、たいていの人は七分目ぐらいに水を入れてゆっくり運ぶだろう。しかしプロレスラーとは、水をタプタプに満杯に入れたコップを全力で運ぼうとする人種なのだ。

 水をこぼさない技量は間違いなくあるのだが、こぼしてしまう可能性がゼロではない。命懸けなのだ。
 読み続けるなか、プロレスを見ていることがどんどん誇らしく思えてくる。自分が「UWF」や「マッスル」を見ていた感覚に似ている。

 しかし、文庫版で追加された「文庫版・後書き」でひっくり返される。
「文庫版後書き 教養としてのプロレスを疑う」。
 でも大丈夫、プロレスが多重構造なのは重々承知。

 でも、この本でプロレスに関しての見方・考え方を完結させてしまったらそれも思考停止なのである。

 「プロレスを見る」とは、「プロレスとは何か」を考えることでもあります。ボンヤリと答えのようなものが見えても、プロレスそのものが時代によって変わり続けているのだから、最終的な答えはどこまでも出てこない。でもたくさんのヒントは頂きました。
 本の中では、物事を「点」でなく「線」で必ず見ている。

 「第13章 ファンタジーはリアルの上位概念である」、ファンタジーの住人、アンドレ・ザ・ジャイアントを中心として、線で見ることでプロレス界の流れを読む。他の話も含め大変面白い章でした。
 しかし「プロレス」という線はまだまだ続いているわけで、新たな見方も生まれているでしょう。
 要は何が言いたいか。
 続編が読みたい。
 文庫版後書きに書かれているように、この本は、プチ鹿島さんが少年時代より抱き続けたコンプレックスとの闘いが中心。
 私は「2000年前後を境にプロレスは変わった」という持論があるのですが、その新しくなったプロレスを考えるモノも読みたい。
 「時代の転換はプロレスで確認できる」。
 プロレスが変わった理由には世間の変革も間違いなくある。そこにスポットをあてたモノの見方。
 前述した立花孝志氏の発言は、今ならば「田舎のプロレス」級の大炎上でしょう。
 できればチャレンジを…。
 最後に、本の中で「弱者」という言葉が多く使われていたのは、個人的に響いたというか、自信がついた感じです。プロレスファンで良かったな、と。
 あと、プロレス以外の教養や知識も必要だと改めて思ったりしました。

 今後、本を買われる方には「付録」のある「文庫版」か「電子書籍版」をオススメします。
 値段もお手頃。



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